映画『ダ・ヴィンチ・コード』 感想文2006/05/22

ダ・ヴィンチ・コードを見た。以前友人に勧められてから、気になっていた作品だったのだが、洋物ということでなかなか手がつけられずにいたら、映画化されるというので、まずは映画から見てみることにした。
折しも世間はダ・ヴィンチ大ブーム。カトリックの団体が神への冒涜とこの作品を批判したがゆえに、更にブームは加熱している感がある。日本はクリスマスにだけにわかにキリスト教徒が増える、不信心な国ではあるが、こういう世界的な宗教の背徳的な面が醸し出す怪しさには、興味津々なのではないだろうか。
とまぁ前説はさておき、まず1つの映画として見てみることにする。ルーヴル美術館館長のジャック・ソニエールが殺害され、その容疑がハーバード大教授のロバート・ラングドンにかかる。ソニエールの孫娘であるという、フランス警察の暗号解読官・ソフィー・ヌヴーは、祖父が残したレオナルド・ダ・ヴィンチに絡むメッセージを見て、犯人がラングドンではないことを知り、彼を逃がし、2人で真相を追及することとなる、というのが、骨子のストーリー。以降ラングドンとソフィーは、警察や他の謎の追手に追われながらも、フランスやイギリスのキリスト教に関係深い施設を訪れ、深まる謎をほぐして解いていく。
彼らの前に立ちはだかるのが、何故かラングドン逮捕に固執するフランス警察のベズ・ファーシュ。そして神のために次々と殺人を犯し、そのたびに自分を鞭で戒めるシラス(劇中ではサイラスと呼んでたような気がするんだが)。そしてシラスやベズを動かしている謎の団体。公権力や殺人鬼、そして謎の宗教団体に追われながらも、協力し謎を解いていくという顛末は、サスペンスの王道だ。つまり宗教的な色をさっ引いて見ると、ごく普通のサスペンス映画と言える。それと、案外宗教物にありがちなエログロシーンがほとんどなかったことも、この映画を普通のサスペンス物に近づけている。アメリカ映画だし、年齢指定を考えてのことだろうか。宗教物ということで期待していたのだが、少し物足りなかった。まぁどちらかというとビジュアルよりも、暗号や謎の真相で見せるタイプのサスペンスなのだろう。
しかしそう考えると今度は逆に、謎がはっきりわからない。私は原作を読んでいないせいもあり、結局最後までよくわからなかった。1つ1つの暗号が画面に出ている時間が短く、またたくさんあるので、瞬間記憶でもできない限り、自力で謎を解くのは不可能である。その点、映画は本よりも不利なメディアだと言える。しかしそれは作る前からわかりきっていたこと。コードやパスワードを前面に出せないとなれば、今度はその指し示す内容をクローズアップすべきなのだが、どうにもこれがまたよくわからないのだ。これは私がキリスト教信者ではないからだろうか。結局、バチカンを総本山とするカトリック教にとって知られたくないキリスト教の「謎」が存在し、「謎」をうやむやにしたがっているカトリック教と、「謎」を守りつつ後世に伝えていこうとするキリスト教の異端の集団の戦いということになるのかな。主人公がそのどちらでもなく、単なる学者で、どちらに与するわけでもなく、カトリック側に追い詰められてはいるが、最後まで真実を解き明かそうとする公平なスタンスを保っていたからだろうか。特に分かりづらかったのは、伝道者、言語ではティーチャーと呼ばれていた存在のあの人で、結局その人が何をしたかったのか、よくわからなかった。うーん、やはり原作を読まないことにはよくわからないようだ。
この映画、1つの映画としてみると、やはり原作の内容を語り尽くせていない、舌足らずなところが目立つのだが、主演にミスターアカデミーのトム・ハンクス、脇にフランスの人気俳優ジャン・レノ、イギリスの大物俳優でロードオブザリングのガンダルフ役でも大好評を得たイアン・マッケラン等、国境を超えた名優たちの共演は見物。特に老け専の方はゾクゾクするラインナップだろう。私はヒロインのオドレイ・トトゥという人は知らなかったのだけど、あまり色っぽいシーンはないし、元々32歳という設定なので大して若くもないけれど、足の細さには驚嘆した。あの人、2本の足で立ってても、1本分にしか見えないのだ。
最後に残念に思ったことをもうひとつだけ。ダ・ヴィンチ・コードと言いながら、映画の中ではあまりダ・ヴィンチの作品が出てこないこと。唯一、最後の晩餐だけはクローズアップされていたけれど、モナ・リザとか岩窟の聖母とかはちょこっと出るだけだったので、美術マニアにはもの足らなかったかもしれない。ディレクターズカットが見たくなる映画ですのう。